さて、その後しばらくして最澄が亡くなった。
この時期は、最澄が生きていたときですら、空海は日本の仏教会の第一人者として“君臨”していた。
なので、最澄が亡くなったあとは、ほとんど空海の“一人勝ち”の状態だったと言ってもいい。
最澄の弟子たちは、その状況によく耐えた、と思う。
しかし、しかしである。
さらに13年後、空海も亡くなったあと、一体どうなったか。
なんと、最澄の弟子たちが大活躍したのである。
逆に、空海の弟子はほとんど育たなかった。
有名どころでいうと、第3代天台座主の慈覚大師こと円仁、第5代座主の智証大師こと円珍。
他にも、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など、今日の仏教各派の宗祖は、ほとんど天台宗から出たといっても過言ではない。
ではなぜこんなにも、差がついてしまったのだろうか。
私が思うに、二人の志、仏教に対する熱い思いは同じだったと思う。
しかし、あえて言えば、空海は右脳派、最澄は左脳派。
しかも、空海は10年間も山野に伏し、荒行のレベルもハンパではない。
そして、常人ではたどり着けない高みまで、登りつめてしまった。
これは、現代に生きる私たちにも言えることであるが、すごすぎる人には、憧れはしても、とてもついていけない。
あの最澄ですら届かない人なのである。
弟子たちが、本気で追いつこうとしなかったとしても、無理はない。
空海の残した多大なる論文の中に、
「虚空盡き、衆生盡き、 涅槃盡なば、わが願いも盡きなん」 (弘法大師空海全集第六巻 性霊集)
という、有名な言葉がある。
現代語に訳すると、
「虚空がなくなり、人々もなくなり、さとりも尽きたならば、私の願いも尽きるだろう」
となる。
一方の最澄の残した文章はどうか。
一番有名な、“山家学生式”という、お寺の規律を書いたものから抜粋してみる。
「国の宝とは何物(なにもの)ぞ。 (中略) 一隅を照らす、これすなわち国宝なり」
「社会の片隅にあって、生きるべき道を照らしている。こうした人こそが、本当の宝なのだ。」と、最澄は言っているのである。
最澄の人生は、苦難の歴史の中にあった、と私は思う。
途中までは良かったが、空海と出会ったあとは、大きな挫折と、さらにそれに伴う弟子の離脱を経験。さらに併行しつつ、頑迷な奈良の僧たちと、激しい戦いを繰り返していた。
事実、命を懸けた論争の半ばで、体を病み、亡くなっているのだ。
自分で食を断ち、自分の意思で入定(亡くなること)した空海とは、優雅さが違う。
しかし、なのに、そんな状況の中においても、“一隅を照らす、これすなわち国宝なり”という、あの素直な文章が書ける、という人柄に私は惹かれるのである。
空海の文章は、すばらしい。
当時の中国でも、“最高”とお墨付きを皇帝からもらったのだ。
しかし、すべてにおいてひねりがある。
“ここに天才の限界がある”といっては語弊があるだろうか。
人生はあざなえる縄の如し(幸不幸は順番にやってくる、の意)。
この二人の巨人の生き様が、仏教同様に、私の胸を打つのである。
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