“仏縁”という言葉がある。
このところ、とくに”縁”というものを感じることが多いので、何回かにわけて、私が最澄、空海、親鸞の各聖人に引かれているのかを、つづってみることにする。
私は香川県の多度津町というところで生まれた。
ここは、中讃とよばれる地域で、讃岐名物 うどんと少林寺拳法の総本山があるところで知られる。
そしてもうひとつ。
弘法大師、つまり空海さんのお母さんの里でもある。
空海さんは、善通寺で生まれた、と言われているが、当時の常識で考えても、夫の実家で生むことは考えられず、私は地元の海岸寺で生まれたと思っている。
もちろんかどうか、我が家も代々真言宗である。
とはいえ、家族はだれも信仰には無頓着で、ただ法事に坊さんが来て、お経を読むだけの付き合いであった。
そんな私が、真剣に空海のことを知りたくなったのはいつの頃だろうか・・・。
次女に、“真央”とつけたのは、空海の幼名“真魚”からつけたことを考えると、もう10年以上になるだろう。
空海はかっこいい。
なんたって、日本史上最強の超能力者でもあり、四国の人間にとっては、“お釈迦さんよりも空海さん”。
おらが村(地域)のスーパースターなのだ。
天才で、当時の世界最大都市、唐の長安に遣唐使の留学僧として渡り、そのときにはすでに中国語がペラペラであったという。
それだけではなく、入唐後はサンスクリット語をも瞬く間に覚えてしまった。
今風に言えば、右脳開発に成功していたのであろう。
また、当時の密教の保守本流である、青龍寺の恵果師についてからは、数千人の弟子をさておいて、わずか数ヶ月で灌頂を授かった。
そのおかげで、本場中国では、それ以降密教はすたれ、いまや正当な密教寺院はほとんど消え失せたという。
平たく言えば、チャンピオンベルトをわずか数ヶ月で、永遠に日本に持ち逃げされたプロレス団体のようなもので、これでは閑古鳥がなくのも致しかたない。
空海の奇跡の足跡はまだまだ続く。
本当は、20年もいなくてはならない唐での留学生活を、勝手にわずか2年足らずで日本に戻ってきた。
それも、唐の皇帝じきじきに許しをえてだ。
この折皇帝の前で、書を披露したというが、当時の唐の皇帝は、今風に言えば、どういえばよいのであろうか。
アメリカ、ロシア、G7の党首全員+天皇陛下でも足りないのではないだろうか。
そのぐらい権威のある皇帝の前で、物怖じせずさらさらと書き、“五筆和尚”の称号を賜ったという。
長々と書いてきたが、それぐらい向かうところ敵なし。
なおかつ、土木工事をやらせても何をやらせても、何でもすいすいやり遂げてしまう。
こんな人にあこがれないわけがない。
私は空海にあこがれて、仏教に傾倒し、サンスクリット語の般若心経まで覚えたのだ。
高野山にも行った。
高野の山は、素晴らしい聖地である。
しかし、学ぶほどに考えが少しづつ変化してきたのだ。
つづきは次回。
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